【三重県伊賀市】
享保年間の伊賀上野城下図(古地図)をもとに、三重大学の高尾准教授監修のもとDMO伊賀市観光協会が作成した再生古地図です。
■ 古地図当時の伊賀について
津藩は最大32万石の大藩です。
そのため、伊勢国の津城と伊賀国の伊賀上野城のふたつ、居城をもっており、津藩士は、津城下のみならず伊賀上野城下にも居住していました。
そして、藩主も時々伊賀上野城の御殿に足を運び、そのとき、藩士たちは主君を出迎える儀式を行いました。
伊賀国は、上方に備える軍事的な重要地点であり、実際、関ヶ原の戦いに関連する戦いもありました。
そのため、本丸西方に深い堀を設け、攻守双方に便利なようにするためか、大手門をふたつ設けています(東大手門・西大手門)。

南に向けて城下町を展開し、外堀のすぐ外に町人地がありました。
東の寺町の存在は、その方面への備えと考えられます。
寺町から東へ農人町が広がったのは、徳川時代中期以降になってからのことです。
外堀は現在、埋め立てられていますが、もうひとつ、その外側に堀を設ける計画があったようで、その跡地は馬場として利用されていました。
本丸に近くなればなるほど、上級の藩士の邸宅です。
忍び(伊賀者)が居住した忍町ですが、忍び(伊賀者)は下級藩士のため南方外堀の外に位置していました。
■ 再生古地図とは?
現存する古地図を 現代の地図同様に正確な座標でリメイクして 色づけなどを施す古地図の再生サービスです。
異なる時代の地図を正確に重ね合わす事で 時間軸での地形の変化と歴史を体感でき、 現在の地形が形成された経緯も明確になります。
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監 修 三重大学人文学部文化学科 准教授 高尾善希 様 |
― 地図の監修について ―
伊賀上野城下の地図は数が豊富であり、徳川時代初期から幕末まで揃っています。
しかし、徳川時代初期は、寺町までが町域で、その頃に忍町に実際、忍び(伊賀者)が居住していました。
その時代の地図を使えば、忍び(伊賀者)の居住地点を紹介でき、町の宣伝としてもよろしかったのですが、前述の通り、寺町までが町域なので、町域が小ぶりになってしまいます。
ですから、やむなく、徳川時代中期の、享保期の地図を採用しました。
制作にあたっては、史跡の情報をふんだんに盛り込みました。
町人地には、史跡として書き込む情報が少ないため、老舗の商家や、「だんじり」の蔵のポイントを書き込み、なるべく情報が散らばるよう努めました。老舗の商家は、わざわざお宅に聞き取り調査をして、レアな情報も載せています。
見どころスポット
古地図を使ってどうまち歩きしたら良いの?どこに行ったら面白い??
伊賀&忍者のエキスパート 高尾先生におすすめ・見どころスポットをお聞きしました。
各スポットの詳細な情報はWEBマップ上で【ガイド】や、スポットのアイコンをクリックするとご覧いただくことができます。
ぜひ探しながらまち歩きしてみてください!!

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【みどころ】 大手門は鈎の手というクランクとなっています。現在でも少し曲がっていることがわかります。 |
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【みどころ】 所々に外堀の堀跡があります。 埋め立てられた後も、すこし低地になっていますから、よく観察してみてください。 |
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【みどころ】 東の備えとして寺が集中する寺町があります。雰囲気がよいのでぜひご散策ください。 |
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【みどころ】 本丸には天守・城代屋敷跡などがあります。西の堀の深さは一見の価値があります。 |
高尾先生とまち歩きしてみよう
実際にスマホで地図を見ながら先生がまち歩きをしている様子です。
見てみると「こんな楽しみ方が!」という新たな発見があるかも?!
▼ 動画リストはこちら
【いがれき#1】ムンディ先生と「伊賀上野城下復元地図」で探索しよう!【伊賀の歴史、再発見】
【いがれき#2】ムンディ先生と「伊賀上野城下復元地図」で探索しよう!【伊賀の歴史、再発見】
【いがれき#3】ムンディ先生と「伊賀上野城下復元地図」で探索しよう!【伊賀の歴史、再発見】
【いがれき#4】ムンディ先生と「伊賀上野城下復元地図」で探索しよう!【伊賀の歴史、再発見】
関連リンク
伊賀市の公式観光サイトです。忍者だけじゃない、伊賀の魅力を紹介されています。