【京都府舞鶴市】
舞鶴鎮守府エリア① 1813年 溝尻村新田并川筋之図写
本図は、祖母谷川加工の新田開発の様子を描いた絵図です。赤色部分は享和3年(1803)までの干拓地、黄色は文化10年の新干拓地です。
祖母谷川は現在よりも東側を流れており、川の付け変えや、浮島周辺の干拓が年を追って進んでいたことがわかります。
法量:114センチ×104センチ
年代:文化10年(1813)
所蔵:個人蔵
舞鶴鎮守府エリア② 1861年 志楽谷・祖母谷川尻新田開発場分間之図
祖母谷川の志楽川が流入する舞鶴湾の東億にあたる所に、浮島(渕島)といわれる島がありました。この周辺は、江戸時代中期より盛んに干拓が行われました。
この絵図は黄色の部分が文久元年より前の干拓、赤い部分が文久元年の干拓です。緑の山の部分は干拓用材を供給した松ケ崎山であり、文久3年の情報を貼り紙しています。
法量:81.5センチ×77.5センチ
年代:文久元年(1861)
所蔵:個人蔵
舞鶴鎮守府エリア③ 1873年 第十五大区丹後国加佐郡五ノ小区余部上村見取図
第十五大区丹後国加佐郡五ノ小区余部上村見取図
舞鶴鎮守府エリア④ 1901以前 舞鶴要港旧状図
舞鶴鎮守府が設置された北吸から余部下付近の「旧状」、すなわち鎮守府設置以前の状況を描いた地図です。
作製年は不明ですが、少なくとも「北吸村」「余部下村」などの村名が記載されることから、町村制が施行される明治22年(1889)以前の状況が表現されています。
今では大きく変貌した北吸、余部下の集落や街道、海岸線の状況を具に読み取ることができます。
法量:132センチ×103.5センチ
年代:明治34年(1901)以前
所蔵:舞鶴市
舞鶴鎮守府エリア⑤ 1901年頃 余部鎮守府附近新市街地平面図
現在の東舞鶴の市街地整備に関する計画図です。作製年は示されていませんが、「水平隊道」(現 道芝トンネル)付近の注記に「余内村」とあり、余部町成立以前であることから、明治35年(1902)6月1日以前に作られたものと思われます。
極めて整然と引かれた朱の計画道路線や河川流路予定線が現在の東舞鶴市街地の状況とほぼ一致しており、ここに示された計画がほぼそのまま実施に移されたことが理解できます。
それと同時に、この図には市街地整備以前の旧倉梯村付近の様相が一軒ごとに丁寧に示されており、旧村の景観を復原することのできる貴重な資料です。
新旧2つの時期の様相が重なり合って表現されたこの地図は、東舞鶴の歴史的変遷を知るうえで不可欠な資料といえるでしょう。
法量:50.5センチ×41.5センチ
年代:明治30年代(明治34~35年頃か)
所蔵:舞鶴市
舞鶴鎮守府エリア⑥ 1903年 舞鶴鎮守府所在地余部町市街町名明細図
明治35年に余部町となった一帯に造成された新市街地部分の道路名及び番地表示が示されています。番地表示をよくみると鎮守府の西門近くに2つの「一丁目」があり、それぞれ南部と西部に向かって番地が連続しています。南部は余部上、西部は余部下となりますが、それらの地名の記載はないため、一見するとわかりにくくなっています。
地図の右下に明治39年6月1日付けの舞鶴鎮守府参謀による検閲済印があります。
法量:66.5センチ×55センチ
年代:明治36年(1903)認可済
所蔵:舞鶴市
舞鶴鎮守府エリア⑦ 1917年 新舞鶴市街地図(初版)
鎮守府の検閲・許可を得て発行された新舞鶴町の市街図。裏面には新舞鶴町の紹介や町勢情報が印刷されています。大正6年(1917)の初版から昭和11年(1936)の5版まで版を重ねました。
法量:54.5センチ×39.5センチ
年代:大正6年(1917)
所蔵:舞鶴市
舞鶴鎮守府エリア⑧ 1923年 舞鶴鎮守府家屋営造物配置図
明治44年(1923)3月時点の舞鶴鎮守府の海軍工廠造兵部兵器庫(赤れんがパーク)周辺の建物配置図。
舞鶴鎮守府エリア⑨ 1924年 舞鶴を中心とせる日本海交通鳥瞰図
「大正の広重」こと、吉田初三郎による鳥瞰図です。画面の大部分が現在の舞鶴市域が占めており、左側から舞鶴、中舞鶴、新舞鶴の各市街地が描かれるとともに、大きく誇張・湾曲された海岸線には舞鶴軍港(要港部)、舞鶴・新舞鶴をはじめとする大正の港湾、各地の海水浴場や魚釣場といった様々な施設が表現されています。
この鳥瞰図の刊行は、ワシントン海軍軍縮条約によって舞鶴鎮守府が要港部へと変更された大正12年(1923)の直後にあたります。軍港都市としての規模縮小を余儀なくされた舞鶴は、貿易都市として発展する道を模索していました。本図内には、舞鶴・新舞鶴の両港から朝鮮半島、樺太、北海道に航路が伸び、日本海交通の要衝としての舞鶴の位置づけが印象的に描かれていますが、この頃の舞鶴の状況を適切にとらえたものと評価できます。
広域の結びつきを的確に表現した見せ方/魅せ方となっているのは、「大正の広重」の面目躍如といったところです。
全体として独創的なデフォルメが施されていますが、描かれた建物を個別にみていくと、現地の状況に関する基礎的な理解を得たうえで誇張等がなされていることがわかります。例えば、現在の舞鶴市役所付近をみてみると、そこには数棟の赤れんが建物が並んで表現されてることからも、現地調査を行ったうえで配置していることは明らかです。
舞鶴鎮守府エリア⑩ 1926年 連合艦隊歓迎 新舞鶴市街案内図
連合艦隊歓迎 新舞鶴市街案内図
舞鶴鎮守府エリア⑪ 1926年 連合艦隊歓迎 中舞鶴町略図
連合艦隊歓迎 中舞鶴町略図
舞鶴鎮守府エリア⑫ 1936年 新舞鶴市街図(第5版)
鎮守府の検閲・許可を得て発行された新舞鶴町の市街図。
舞鶴鎮守府エリア⑬ 1945年 舞鶴鎮守府家屋営造物配置図
昭和20年(1945)8月時の舞鶴鎮守府軍需部(現在の赤れんがパーク)周辺の建物の配置図。