「南方熊楠(みなかた・くまぐす)」という人物をご存知でしょうか?
彼は1867年に和歌山で生まれ、生涯を通して森羅万象あらゆることを貪欲に探求し続けた学者です。
国内外を問わず多くの偉人と交流し、科学雑誌『ネイチャー』に論考が掲載されたり、ロンドンの大英博物館に有識者として迎えられるといった輝かしい経歴の一方で、「大酒飲みの癇癪持ち」「気に入らない相手に向かってゲロを吐く」といった奇人ぶりも囁かれる熊楠。
このつぶらな瞳のイケメンは、一体何者なのか?
ここではあえて親しみを込めて彼を“ぐっさん”と呼び、その常人離れした魅力に迫ってみようと思います。
“ぐっさん”の魅力 その1
集中力と好奇心が桁外れ
熊楠といえば「粘菌」、「粘菌」といえば熊楠。そう表現しても過言ではないほど、彼は粘菌研究の第一人者としてよく知られています。
「粘菌」とは、動物とも植物ともつかない不思議な生物。熊楠はこのミクロの小宇宙を感じさせる粘菌にのめり込み、和歌山の原生林に分け入っては粘菌を収集する生活に明け暮れていました。
一方でほかの動植物や鉱物にも興味があった熊楠は、キノコや貝、昆虫、カエルの干物にサメの顎など、ありとあらゆるものを収集していました。また民俗学や精神世界にも造詣が深く、女性の陰毛や性風俗まで研究対象とするなど、気になったものは何でもとことん調べないと気の済まない性格だったようです。
“ぐっさん”の魅力 その2
動物にも自然にも優しい
熊楠は動物や子供といった無垢な存在に愛情を注いでいました。中でもネコとカメがお気に入りで、日記にもこれらの詳細な観察記録が登場します。カメは庭先の池に30匹ほど飼育していたようです。
さらに伐採されようとしていた神社林の保護を訴え、神社合祀(明治末期に行われた神社合併制作)反対運動に尽力しました。この時期に熊楠が書いた手紙の中には「エコロギー(エコロジー)」という言葉も登場し、彼が時代に先駆けた“エコ男子”だったことがわかります。
“ぐっさん”の魅力 その3
すごい人と知り合い。でも見栄は張らない
熊楠の旺盛な好奇心の矛先は日本国内だけにとどまらず、19歳から33歳までを異国の土地で過ごしました。植物採集に重きを置く彼の研究スタイルも、この時期に確立されたとみられています。
ロンドン滞在中(マップ⑤)、東アジアの文化に詳しく、英語も堪能だった熊楠は、東洋学者のロバート・ダグラスを通して革命家・孫文と知り合いました。のちに中華民国を建設することになる孫文と熊楠は年齢も近かったこともあり、深い心の絆で結ばれました。
また東京大学予備門時代(マップ②)の同級生には夏目漱石や正岡子規など、そうそうたる顔ぶれが並び、30代後半で和歌山県田辺市に居を移してからも(マップ⑦)真言宗密教僧・土宜法龍と文通したり、民俗学者・柳田國男の訪問を受けるなど(2日酔いで寝床にもぐり込んだまま柳田と会ったとの逸話あり)、その計り知れない知識に吸い寄せられるように、多くの偉人が熊楠の周りに集まりました。
極めつけは昭和天皇。生物学を趣味とされていた若き日の昭和天皇は、関西行幸の際にミルクキャラメルの箱に入った標本を携え参上した熊楠と出会い、その数十年後に熊楠の名前を詠んだ御歌を発表しています。
“ぐっさん”の魅力 その4
男友達が多い、でも女性の扱いはちょっ と苦手!?
自宅では全裸で過ごす、牛肉とビールばかり飲み食いする、お金稼ぎとは縁遠い研究に明け暮れるなど、結婚相手としてはいまいち良いところのない熊楠。実際39歳で結婚してからも奥さんに別居されるなど、女心の取り扱いには苦心したようです。(別居は3ヶ月ほどで解消)。
そんな融通のきかない熊楠ですが、飾らない人柄で町の人々からは大いに愛されました。熊楠の収集品の多くが彼を慕う弟子によってもたらされ、行商人や漁師の好意で届けられたものです。また田辺市に暮らす友人の多くが、不器用な熊楠を終生にわたり支え続けました。
知れば知るほど、ますますその魅力の深まる“ぐっさん”。ついその強烈な性格にばかり目が行きがちですが「南方マンダラ」「山神オコゼ魚を好むということ」ほか、彼の残した興味深い偉業はまだまだ数えきれないほどあります。
ぜひこの秋は、和歌山の地で紅葉&熊楠の足跡に触れる旅に出掛けてみてはいかがでしょうか。
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本マップは南方熊楠生誕の地・和歌山市をめぐるまち歩きマップです。お時間がある方は南方熊楠顕彰館と南方熊楠記念館にもぜひ足を運んでみてください。
画像:【南方熊楠顕彰館(田辺市)】所蔵
参考文献:
・中瀬喜陽監修“別冊太陽 南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人”平凡社 2012年2月
・荒俣宏、田中優子、中沢新一、中瀬喜陽“奇想天外の巨人 南方熊楠”
平凡社 1995年10月
・水木しげる“猫楠-南方熊楠の生涯”角川書店1996年10月